あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

草枕

 つい先日、「大和撫子七変化」という記事を書きました。三宅由佳莉さんのインスタグラムで、大変珍しい浴衣姿の写真が公開されたことを報告したものです。

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 三宅さんのインスタグラムが更新される度に驚かされるのですが、同時にインスピレーションの輪が一気に広がります。本当は、それらを全部かき集めて整理し、きちんと構成した記事にしたいんです。でも、まだ気づいておられない皆さんに早くお知らせしたいという気持ちが先に立つものですから、多くを切り捨ててしまうため、どうしても内容が皮相的になってしまいます。それでも、自分の中に広がったイメージをなるべく盛り込もうと足掻くので、なんとなく勝負をしているような気にもなります。もちろん私の勝手な一人相撲なんですけど(^ ^)

 そんなこともあって、出先で不意を突かれた2回目、3回目の更新を目の当たりにした際、「どっからでもかかって来い!」という言葉が浮かんだのかも知れません。

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 それはさておき、前回の朝一の更新を確認した時にもいろんなイメージが膨らみました。それらを一言で現せば「やまとごころ」なのかな、と思います。三宅さんの内側にある「やまとごころ」を改めて感じたからです。

 実は以前、三宅さんの「やまとごころ」について書いたことがあります。もう2年以上前の記事ですが、久しぶりに読み返してみると、何か懐かしい新鮮さを感じました。よろしければ読みください。

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  さて、今回のタイトルにある「草枕」ですが、これは漱石の初期の名作の一つで、私も高校生の頃に読み、とても刺激を受けました。

 特に書き出しの印象的な一文には大変な感銘を受け、何度も読み返したのでいまだによく覚えています。

「山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。人の世が住みにくいからとて、越すところはあるまい。あるとすれば人でなしの国へ行くばかりだ」

 このリズミカルで思索に富み、かつちょっと斜に構えたユーモアも加味された一文が、まだ少年期にあった私には神々しく感じられたのでした。リズムというものが文章を生かしも殺しもするということを教えられたのも「草枕」でした。

 そんな師匠のような「草枕」なのですが、どちらかと言うと表現力に着目して読んでいた面もありましたし、何しろ半世紀近く前のことです、その内容はどこかへ消え失せてしまっていました。

 ところが、三宅由佳莉さんの浴衣姿の最初の写真を拝見した際、様々なイメージが浮かぶ中で、何故か「草枕」のことが脳裏を過ぎったのです。コメントをいただいた鹿野高志さんへの返信でもそのことを書いたのですが、どうしてなのかは分かりませんでした。今、手元に「草枕」がないので改めて買って来ようかなとも思ったのですが、それでは私が感じたことが希釈されてしまうような気がします。あくまで、現状のままで書いてみよう。そして、その後に「草枕」を読み直してみよう、そう思いました。

 そして、いまだに記憶にある出だしの一文を反芻しているうちに思い出したんです。主人公が山道を登っているのは、確か山間部の湯治場に向かっていたのだと思います。そして、その湯治場を経営している(?)一人の女性に出会います。どのように表現されていたかは思い出せませんが、とても不思議な印象が残っています。漱石はその佇まいを「非人情」と書きました。「不人情」ではなく「非人情」です。当時の私には、それが何を意味しているのか理解する力はなかったと思いますが、ある夜、主人公が何気に湯治場の湯殿のあたりを散策していると、確か、その女性が鬼気迫る雰囲気で、「舞い」(多分)の稽古をしている姿を目にするシーンがありました。主人公は、昼間の、ちょっと風変わりではあるけれども温和なその女性からは想像もつかない気迫を感じるのです。

 今風の小説のように、色恋沙汰に発展することはなかったと思いますが、男女であると同時に人としての深い敬意と憧憬を無言の裡に共有する二人の有りようが、まさに「情」を排した「非人情」の深い交わりなのではないかと感じたような気がします。

 そして、おそらく、その女性のイメージに三宅由佳莉さんの浴衣姿の凛とした和装の美しさが重なったからこそ、「草枕」が私の脳裡に蘇ったのでしょう。

 今週末も、インスタグラムの更新があるのでしょうか。いつもそうなのですが、楽しみ半分、怖さ半分です(╹◡╹)