あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

三宅由佳莉さんの、やまとごころ

 今回のテーマは、昨日の記事「三宅由佳莉さんの『オペラ座の怪人』」に、「1」さんが寄せてくださったコメントに着想を得たものです。

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    しき嶋のやまとごころを人とはば

       朝日ににほふ 山さくら花

 

  これは、本居宣長が詠んだ歌です。

 どうでしょう、なんともストレートな詠みぶりですよね。

 国学の四大人(しうし)に列せられる宣長にして、「やまとごころ」は「さくら」に仮託するのほかないのか、とも取れますが、逆に桜花を想起するだけで、その何たるかをたちどころに了知し得る意識のありようこそが「やまとごころ」だと教えてくれているようにも思えます。

 関東ではすっかり時期外れになってしまった桜ですが、北日本での見頃はこれからですよね。記事冒頭に掲げた2枚の写真、いずれも美しい桜ですが、宣長の歌で私が想起するのは左側です。あるいは山一面を埋め尽くす千本桜のイメージです。

 一つ一つの花は、確かに美しいけれどもどこか線が細く儚い、はらはらさせられる美しさですよね。ところが、ちょっと引いて見た桜は、満を持して一斉に枝から咲き出て来たことを誇らしげに訴えるような力強い美しさを湛えます。

 しかも、薔薇のように「私は美しい」という主張ではなく、自らの美しさをもって他者をより引き立てる、そんな、分を弁えた美しさではないかと思うのです。

 自らのことは差し置いて、他者のために思いを巡らせる。古来、わが国で広く行われてきたそのような作法は、まさに、桜の花のような分を弁えた美しさだと思いますし、宣長は、きっとそのような日本人のありようを詠み、徒に外国かぶれして大和魂を忘れかけていた「漢心(からごころ)」の輩をたしなめたのではないかと思います。

 

 江戸時代後期にあってさえ「漢心」が懸念されていたことを思えば、現在の我が国を見た宣長は、いったいどんな歌を詠じるでしょう。

 そんな我が国の現状を憂うる人が決して少なくないということを、私は、三宅由佳莉さんのファンになってから知るようになりました。

 現役時代、一般の国民の意識について報道等を通じて知るしかなかった私は、若い頃の様々な実体験も踏まえ、「自衛隊の敷地を出ればどこもアウェー、それがこの日本」と思っていましたから、三宅由佳莉さんの人気が高いという話を聞いても意味がよくわかりませんでした。

 退官後、今の会社に入ってから、自衛隊に対する憎悪や反感というものはごく一部の人たちの特殊な主張であるに過ぎないことに気づきました。そして、三宅由佳莉さんのファンとしてネット上でのやりとりなどを見るうちに現実がわかってきたのです。

retcapt1501.hatenablog.com

 「三宅由佳莉さんの効能(3)」は、ちょうど5ヶ月前の記事ですが、この中で私は次のように書きました。

 

現在の日本は、表層と実相の乖離が深刻なまでに進行しています。特定の勢力がマスコミなどを利用して意図的に作り出し、国民向けの巧妙なプロパガンダで押し付け続けてきた表層と、その表層に違和感を覚えつつも物言わぬ大多数の日本人が心の内に抱いている、古来から受け継がれてきた日本人としての意識との大きな乖離です。

 このことに危機感を覚えつつも、そのような意識を糾合する求心力が見出せず、八方塞がりの閉塞感の中で、日本の再生を諦めかけていた多くの「日本人」が、三宅由佳莉さんの歌を聴き、一筋の希望を見出しているのではないかと思えるのです。

 

 このことは、私の素直な印象でしたし、今でも変わりません。

 三宅由佳莉さんが、単に歌の上手い容姿端麗な歌い手であれば、このような現象は起きなかったでしょう。三宅さんの持つ「やまとごころ」が、彼女の歌だけでなく、平素の立ち居振る舞いや言動に溢れているからこそ、「本物の日本人」の心を掴んで離さないのだと思います。

 わが日本社会への「漢心」の浸透は深刻な段階に来ていると感じますが、三宅由佳莉さんの存在は、「やまとごころ」の静かな反撃の象徴なのではないかとも思い始めています。

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