この記事を書いている最中、三宅さんのインスタグラムがまた更新されたとの一報を受け、そちらの速報を優先させていただきました。もちろん、今回も心地よく驚かされました(╹◡╹)
とは言え、昨日の「横須賀歯科?」は出先での編集で、中途半端になってしまいましたので、改めて書かせていただきます。
今回は、ちゃんと変換されるまで「しか」の候補をめくりました。それほど使用頻度が高くないためか、「市歌」はなかなか出てきませんけど。
モノのついでに「横須賀歯科」を検索してみましたら、なんと、横須賀市ではなく、以前私が住んでいた東京都大田区の防衛省大森宿舎のすぐ近く、大森山王に「横須賀歯科医院」があるのがわかり驚きました。大森山王なのに、何故「横須賀」? 院長のお名前が横須賀さんなんです。
それはさておき、横須賀市歌です。
昨夜帰宅して、改めてインスタグラムをチェックし、三宅由佳莉さんが歌われるこの歌を拝聴してみました。いつ聴いても透き通った美しい歌声ですよね。後半、ご自身によるハーモニーが重ねられて、大変奥行きのある歌の世界が広がります。まさに歌姫なんだなぁと改めて感じ入りました。
いつも意表を突いた切り口で写真や動画を投稿される三宅さんですが、またしても、全く予想外の展開で驚かされましたし、同時に「そう来たか(^^)」と楽しませてもいただきました。
こうして、私たちが驚くのを楽しんでおられるのかも知れませんね。
それにしても、今回横須賀市歌を披露されたのには何か理由があるのかな、と考えておりましたら、「いかづち」さんが、昨年11月3日に横浜みなとみらいのクイーンズスクエアで開催された「横浜音祭り」で、横須賀音楽隊が「横須賀市歌」を演奏していたことを思い出させて下さいました。
AMANO Jun-ichiさんによる当日の動画です。
横須賀音楽隊では、こうして横須賀市の市歌をよく演奏されているのですね。ひょっとすると、横須賀市関連の行事などで、近々横須賀音楽隊が演奏支援を行い、三宅由佳莉さんが歌を披露されるのかも知れません。もちろん、なんの根拠もありませんけど(╹◡╹)
さて、その横須賀市歌ですが、かつて4年間横須賀市民だったにもかかわらず、私の記憶にはありませんでした。
今回、三宅由佳莉さんが歌を披露されましたので、改めて調べてみましたところ、この歌は、1967年(昭和42年)2月15日に、横須賀市製施行60周年を記念して制定されたものなのだそうです。作詞:堀口大學、作曲:團伊玖磨 とあります。凄いですね。
三宅さんが歌われたのは5番まである歌詞の1番だけなのですが、横須賀を印象深く描いていますので、ここに書き出してみます。
白波は 白波は 岬にくだけ
光る風 光る風 台地にあそぶ
半島の 半島の 只中占めて
溌剌と わが横須賀は 太陽の 前に生きたり
前向きに 前向きに 明日を行くてに
溌剌と わが横須賀は 太陽の 前に生きたり
この後、2番と3番で横須賀の歴史を、4番で横須賀の自然と風光を、そして5番では未来の夢を描いて行きます。
この歌は、市制施行60周年を記念して制定されたと書きましたが、それまで市歌はなかったのかというとそうではありません。実は現在の横須賀市歌は2代目なんです。
初代の市歌は、横須賀市製施行30周年を記念して、1937年(昭和12年)2月15日に制定されました。作詞:北原白秋 作曲:山田耕作 こっちも凄いですね(╹◡╹)
こちらの歌詞は、著作権法上の制約がすでになくなっていますので、全ての歌詞を書き記してみます。
1 旭日の輝くところ 儼(げん)たり 深き潮
艨艟(もうどう)城とうかび 清明 富士は映れり
勢(いきお)へ我が都市 横須賀 横須賀 大を為さむ
2 金鉄(きんてつ)の貫くところ 鏘(しょう)たり 響け軍都
工廠光赤く 営々 人は挙(こぞ)れり
勢(いきお)へ我が都市 横須賀 横須賀 大を為さむ
3 聖恩の普(あまね)きところ 儼(げん)たり 見よや東亜
天業(てんぎょう)ここに高く 皇国 護り康し
勢(いきお)へ我が都市 横須賀 横須賀 大を為さむ
ここに描かれる「軍都横須賀」は、一昨年、横須賀芸術劇場で開催された「第35回防衛セミナー」のテーマでもあった「旧軍港都市横須賀の歴史」を実に端的に表し、その歩みが近代日本の礎となったこと、そしてこれからもそうあろうとする心意気のようなものが歌われています。
まさに横須賀の成り立ちを史実に沿って的確に描いているわけですし、格調高い歌詞であると思うのですが、ご多聞に漏れず、この歌にも敗戦の影響が及んだようです。戦後、この歌が歌われる機会はほとんどなくなったのだそうです。
私は決して復古主義者ではありませんが、有史以来の戦前の日本を全否定するような戦後のあり方には強い疑問と反発を覚えます。
現在を生きる私たちは、この国の悠久の歴史の上に存在しています。突然出現したわけではないんです。良いことも悪いことも、日本人の足跡の全てを自分たちのものとして慈しんでいくのでなければ、この国に生を受けた意味はないのではないでしょうか。そしてまた、ためにする歪められた物語ではなく、事実にもとづく自分たちの歴史をきちんと見極めていく努力が必要なのではないでしょうか。