この連休の後半は、ひと月ほど前に高熱を出して緊急入院した高齢の父の容体が思わしくないとのことで、実家に身を寄せつつ、父を病室に見舞う毎日でした。
今日明日どうなるという状態ではありませんが、そう長いことはないでしょう。
容体が思わしくないと聞き、飛行機のチケットが取りにくいGW中に急遽帰省したのは、父の意識が清明であるうちに伝えたいことがあったからです。
少年時代を東京都品川区の大崎で過ごした父は、大東亜戦争中、米軍による東京大空襲を生身で体験しています。私が子供の頃には、隣家が爆弾の直撃を受けたことや焼夷弾の雨のなか逃げ惑った話などをよく聞かせてくれました。この辺の話は、いずれ別記事で詳しく書いてみようと思っています。
そんな父は、母に言わせると、ロクでもない亭主らしいのですが(笑)、息子から見ると、大変厳しくはありましたが、人としてどう生きるべきか、社会とどう向き合うべきかを教えてくれた存在でした。
私がまだ小学生だった1972年の2月に浅間山荘事件が起きました。
銃で武装した極左テロ集団「連合赤軍」が、軽井沢にあった某社の保養所「浅間山荘」に人質を取って立て篭もり、警官隊との10日間にわたる攻防戦の末、全員が逮捕された事件です。人質も全員無事でしたが、警官隊は2名の殉職者を出しています。
衝撃的な事件であり、テレビは連日、朝から晩まで現場からの中継を続け、日本中が画面に釘付けになりました。この間、各家庭の在宅率が非常に高くなったため、空き巣狙いや交通事故の件数が減ったほどです。
我が家でも、何度も家族全員でテレビを見ていたのだと思います。警官の一人がテロリストの狙撃により殉職されたあと、あるテロリストの母親が拡声機で投降を呼びかける場面がありました。現に殺人まで犯したテログループの息子に対し「ちゃん」付けで呼びかける様子に、子供心にも違和感を感じたのを覚えています。
「もし、お前たちがこんな事をしでかしたら」
父が、大変厳しい表情で話し始めました。
「俺は現場に行って、お前たちを殺す」
私と弟は、固唾を飲んで聞いていました。
「警官から銃を奪ってでも撃ち殺す」
陸上自衛官だった父の言葉には妙な現実味がありました。
「そして、俺も死ぬ」
とても物騒な物言いにもかかわらず、聞いていた私は心が満たされるのを感じ、とても幸せな気分になりました。その時の心が膨れるような感覚は今でも鮮明に覚えています。
何故そんなに幸せな気分になったのか、言葉ではうまく言えないのですが、自分の親が社会に対する責任というものを、そのように考えていることを知り、とても安心したこと、そして、「殺す」という言葉の裏に、「お前たちを信じてるぞ」という信頼を、そして「俺も死ぬ」という言葉に、「どんなことがあっても、お前たちを見捨てはしない」という深い愛情を感じ取ったからだと思います。
そして、家族という極めてプライベートな空間においても、ここぞという時には「公の言葉」を使わなければならないということを学んだ気がします。
このエピソードは、私の社会的人格形成に少なからぬ影響を与えましたが、今まで、誰にも話したことはありませんでした。
今回、このことをきちんと父に伝えておきたいと思ったのは、人生の終末期を迎えつつある父が何を考えながら日々を過ごしているのだろうと想像してみたからです。
考えることは様々あるでしょうけれど、一番の問題は、二度とやり直しのきかない自分の人生は、果たして意義あるものであったのだろうか、自分が成し得たことは何かあったのだろうか、ということではないかと思うのです。
ですから、「頑張って長生きしてくれ」と言う代わりに、「親父の人生は十分意義のあるものだった。だから安心して逝ってくれ」と(勿論、言外にですが)伝えたかったのです。
二人きりの病室で、父は黙って私の話を聞いてくれました。そして、ステロイドの使用で腫れぼったい目を細めながら「そんなことを、今まで覚えていてくれたのか。何より嬉しいことだ」と言って、すっかり筋力のなくなった皺だらけの手で、私の手を握りました。
こんなことで、父が自分の人生を全肯定できるとは、到底思えません。ですが、息子が、自分の人生に大きな意義を認め、感謝していることだけは理解してもらうことができたのではないかと思いますし、そのことが、父が自分の人生に折り合いをつける助けになったことを信じたいと思います。
私事にお付き合い頂き、ありがとうございました。