あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

誰も知らない自分

 先日まで暑い日が続いていたのが嘘のように、ここ横浜では、9月に入った途端に涼しいというか、肌寒い日が続いています。秋雨前線が早々に南下してきたのでしょうか、来週までずっと雨の予報が続いています。

 前回、自分の手持ち物品の中に、三宅由佳莉さんのデビューアルバムを「発見」して驚いた話を書きましたが、分かっているようで知らないことが多いのが自分自身のことなのかも知れませんね。

 ちょっと趣旨はズレるかも知れませんが、学生時代に学んだ心理学の講義で、「自分」というものの捉え方についての一つの見方を知り、「なるほど」と思ったことを思い出しました。下の模式図のような捉え方ですが、ご存知の方も多いのではないかと思います。

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 極めて単純化された捉え方ですので、実際にはこんな明確な区分けはできないと思いますが、自分というものの成り立ちを理解するにはとても有益だと思いました。

 特に衝撃を受けたのが、「誰も知らない自分」です。

 そんな部分が自分にもあるのかも知れないと思うと、なんとなく心落ち着かない気分になりますよね。

 当時、「自分探しの旅」というのが流行っていて、今でも時々耳にしますが、この話を聞いた時に思ったのは、ただなんとなく旅をするだけで自分が見つかるわけではないだろう、上の図の左象限、つまり「自分の知らない自分」を見出すという目的意識がなければ、ただの暇つぶしだよね、ということでした。

 人生はしばしば「旅」に準えられますが、歳を経るにしたがって、自分のことがある程度は客観的に見られるようになってきますから、人生そのものが「自分探しの旅」であるのかも知れません。ただ、「自分が知らない自分」を見出すのは、そう簡単なことではないでしょうし、特に「誰も知らない自分」は、どこまで行っても見つけ出せないのかも知れません。

 でも、時々「自分はなぜ、これを選択したのだろう」「なぜ、心にもない言葉が出たんだろう」と思うことはありませんか? 私にはよくあることです。

 自分の人生は自分がコントロールしているつもりでも、実は「誰も知らない自分」に支配されているのかも知れない、そんな風に感じたりもします。

 人生を自分の手に取り戻す、すなわち、「誰も知らない」自分を探し出して、これを制圧することこそが、人生の目的なのかも知れませんね。

 先日三宅さんのCDを「発見」した驚きが大きかったものですから、いろんなところに思索が及び、今回はこんな記事になりました(╹◡╹)