さて、今日は何の日でしょう。
おそらく「終戦記念日」と答えられる方が大多数ではないでしょうか。
でも、私はこの呼称に違和感を覚えます。
我が国は、自存自衛のため、そして欧米列強に蹂躙されていたアジア諸民族の解放と自立と言う大義を掲げて大東亜戦争を戦い、やがて力尽きて敗れました。
ですから、8月15日は「敗戦の日」と呼ぶべきではないのでしょうか。
昨日の、記事に寄せられた「モンスター」さんのコメントへの返信にも書きましたので、読まれた方もおられるかもしれませんが、我が国は、大東亜戦争を本当の意味で総括できていないと、私は思っています。
米国の甘言に乗せられたという一面はあるにせよ、全ての責任を軍に負わせてこれを解体し、他の者はみんなで頰被りをして知らぬふりを決め込む。そのような安易な途を選んだことが、現在の我が国を蝕む様々な問題の遠因であるとも思います。
「終戦の日」と言う呼び方には、当事者意識が感じられません。「勝手に戦争を初めて負けたのは軍であって、私たちは無関係だ。だから、戦争が終わってくれて本当によかった」と言う意識が、「終戦の日」という、人ごとのような呼称から読み取れるため、私は違和感を覚えるのです。
大東亜戦争を戦ったのは、私たち日本人です。そして敗れたのも私たちです。私たちは戦争の当事者なのですから、「終戦記念日」ではなく「敗戦の日」あるいは「敗戦を惜しむ日」とするのでなければ、故国の安寧と繁栄を信じて各地に散華された数多くの将兵の御霊に顔向けできないのではないでしょうか。
言葉は意識です、戦後70年以上にもわたり「終戦記念日」と言い続けてきたことが、私たち日本人に与えた影響は計り知れないほど大きいと思います。
私が、目黒にある海上自衛隊幹部学校に入校していた時、櫻井よしこさんの講和を頂戴する機会があったのですが、その中で櫻井さんは、ある教授から聞いた興味深い話を聞かせてくださいました。
「櫻井さん、近頃高校では近現代史を軽視する傾向にあるとは思っていたが、ここまでか、と驚かされることがあったんだよ。先日、講義中に日米間の戦争の話をしたら、学生が目を丸くして『先生、それは本当ですか?』って聞くんだな。君たちはそんなことも知らないのか、とこっちが驚いて聞くと、『で、どっちが勝ったんです?』、全く開いた口が塞がらなかったよ」
天下の東京大学での話です。
8月15日を「終戦の日」などと呼称している限り、日本人は大東亜戦争に至る悠久の歴史から断絶した世界で、根無し草のようにゆらゆらと漂う気味の悪い存在であり続けるのではないかと危惧します。
当事者意識を持って「敗戦の日」を受け止めるのでなければ、私たちはあの戦争から何一つ教訓を得ることはできないでしょう。