あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

今日は何の日?(8月14日)

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  柴五郎という名前を聞いたことがありますか? 残念ながら御存知の方は少数派だと思います。それでも、冒頭の写真の風貌とその服装から、おそらく明治期の軍人らしい、ということは何となくわかるのではないでしょうか。

 柴五郎は、会津出身の帝国陸軍軍人で、「坂の上の雲」で描かれた秋山好古(あきやま・よしふる)とは陸軍士官学校の同期です。

 会津藩士の子であったことから、明治政府の中では決して厚遇される立場ではなかった筈ですが、それでも陸軍大将まで上りつめたのですから、余程の才覚に恵まれていたのでしょう。砲兵将校であると同時に、陸軍きっての中国通として知られ、英語、フランス語、中国語など数カ国語に通じた情報将校としても力量を発揮しました。

 その知見ゆえに、事あるごとに中国(清朝)に派遣されてきた柴五郎は、1900(明治33)年3月、北京にある在清国日本公使館付武官(陸軍中佐)として着任しましたが、その直後の5月に義和団の乱が起きます。派遣のタイミングから見て、おそらく明治政府は清国内の不穏な動きを察知し、柴を北京に送ったのではないかと思われます。着任後、直ちに各国公館が置かれていた紫禁城内や北京市内の状況を把握するとともに、中国人協力者らによる信頼性の高い密偵網を構築したという逸話からもそれは伺えます。

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 さて、義和団の乱とは、「扶清滅洋(清国政府を助け、清国内の欧米勢力を滅ぼす)」をスローガンとして掲げる秘密結社・義和団による排外運動であり、江戸時代末期の尊王攘夷運動にも似た動きと言えるでしょう。清国の拙劣な外交が招いたこととはいえ、列強による清国に対する横暴な振る舞いが、このような動きの要因になったことは間違いないと思います。

 しかし、外国人や舶来品のみならず、中国人クリスチャンをも攻撃の対象として惨殺するばかりか、日本やドイツの外交官まで殺害するに至った暴挙は、理由が何であれ許されるものではありません。列強に対する積年の不満から、義和団に共鳴するところもあった清国政府は、彼らに対する取り締まりに手心を加えてその横行を助長する傾向がありましたが、驚くべきことに6月21日、西太后は駐留各国に対し宣戦布告し、清国正規軍が義和団とともに、本来であれば自国の責任において防護すべき外国公館に矛先を向けることになったのです。

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 紫禁城内の各国公使館区域(東交民巷)には、外交官のみならずその家族である多くの婦女子、さらには義和団からの保護を求めて集まった約3千人の中国人クリスチャンが孤立無援の状態に置かれることになりました。

 一説によれば、この時点で約20万人の義和団北京市内を跋扈していたとされるほどですから、清国正規軍とあわせ、少なくとも数万人規模の兵力であったと思われます。

 これに対し、公使館側は、各国の警備兵力を全部合わせても500名足らず、民間人からの義勇兵を加えても600〜700名程度であり、その兵力差は圧倒的でした。

 もちろん、各国とも本国に救援部隊の派遣を要請しましたが、揚陸拠点である天津から北京に至る経路は義和団で溢れかえり、橋梁が破壊されるなど物理的な障害の他に、連合軍を構成する各国の思惑の違いから足並みが揃わず、北京への道のりは果てしないものとなっていました。

 このため、いつ到着するとも知れない連合軍救援部隊が到着するまでの間、公使館側は僅かな兵力での籠城戦を余儀なくされたのです。

 この戦いの詳細は、本稿の主眼ではありませんので省略しますが、柴五郎中佐が果たした役割に注目してみたいと思います。

 公使館連合軍(仮にそう呼びます)の総指揮は、退役軍人でもある大英帝国公使クロード・マクドナルドが執ることとなり、籠城戦の作戦会議が幾たびか行われました。各国武官中、最先任者は柴中佐でしたから、マクドナルド公使の総指揮の下、軍部隊の指揮官は柴中佐が務めるのが常識です。しかし、東洋人をはるかに見下していた当時の列国武官団がそれを受け入れる筈もないことを十分理解していた柴中佐は、会議で出しゃばることをせず、良い意見にはすかさず賛意を示し、また議論が行き詰まった際には的確なヒントを提供して、結果として自らが考える方向に会議の流れを作って行きました。終始沈着冷静でほとんど発言しないにも関わらず、非常に存在感のある柴中佐への信頼と敬意が次第に武官団の中に広がり、最終的に指揮官が柴中佐であることに異論を唱える者はいませんでした。

 また、実際の戦闘場面でも、誰より情勢をよく把握し、また経験豊かな柴中佐の指揮統率が光りました。直接指揮下にある日本軍将兵もよくこれに応え、籠城戦を通じ勇戦奮闘して、最も多い戦死者を出しながら他国の幾多の危機を救いました。

 英国公使館の壁に穴が開けられ、義和団兵が侵入したとの一報が入るや、柴中佐は迷うことなく、ただでさえ手薄な自陣から8名を急派。狼藉を働いていた20名ほどの義和団兵を瞬く間に斬り倒して成敗する彼らの勇猛ぶりを目の当たりにした英国人婦女子は、日本兵の強さに驚きました。

 苛烈な戦闘を続ける一方で、常に恐怖に怯える各国婦女子たちの緊張を和らげようと、いつも笑顔とおどけた身振りで接する優しさや、戦闘で深手を負っても泣き喚いたりせず、じっと耐えている姿は、今まで何の関心も抱くことのなかった見知らぬ東洋の国の軍人たちに対する絶大な信頼と敬意となって広がっていきました。

  「007シリーズ」の作者、イアン・フレミングの兄で、やはり作家のピーター・フレミングは、この籠城戦をその目で見た生き証人の一人ですが、その著書「北京籠城」の中で次のように書いています。

戦略上の最重要地点である王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも勇敢で経験もあったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。
日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。
籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。

 こうして、柴五郎中佐と日本軍将兵の奮闘を大きな支えとして、公使館の連合軍は圧倒的な兵力差にも関わらず、救援部隊が到着するまでの約2ヶ月を持ちこたえたのでした。

 今から118年前の1900(明治33)年8月14日、ようやくにして約2万の連合軍が北京に展開して清国軍と義和団兵を制圧し、長かった籠城戦は終焉を迎えました。

 その後、籠城戦での柴中佐の著しい功績に関する記事が世界中に配信され、柴五郎中佐は、欧米で最も有名な日本人となり、また、籠城各国から柴中佐への叙勲ラッシュが起きました。

 しかし、特筆すべきは、この籠城戦で総指揮を執った英国公使クロード・マクドナルドをして、帰任後「日本と同盟すべし」と強く本国政府に進言せしめた、柴中佐以下日本将兵への絶大なる信頼です。

 大英帝国は、長く「栄光ある孤立」をその外交政策の基本としていたことから、それまで他国と同盟関係を結ぶことはありませんでした。

 他方、欧州でも、中東でも、また中央アジアや極東でも、勢力圏を広げる南下政策をとるロシアとこれを封じ込めようとする英国の間で「グレート・ゲーム」と呼ばれる壮大なせめぎ合いが演じられており、英国は信頼に足るパートナーを模索していたという背景がありました。

 それでも、極東の小国日本との同盟関係など、日英両国ともそれまで想像だにしなかったに違いありません。マクドナルドの熱心な進言が功を奏したのでしょう、籠城戦から2年後の1902年、画期的な日英同盟が締結され、初代の駐日大使となっていたマクドナルドは、同盟に至る交渉の全てを自ら手がけたのでした。

 以前、「今日は何の日?(5月27日)」という、日本海海戦についての記事でも書きましたが、日露戦争、特に日本海海戦の勝利に日英同盟が果たした役割は非常に大きかったと考えます。

retcapt1501.hatenablog.com

 その意味で、1900(明治33)年8月14日の解放まで、籠城戦の連合軍を見事に指揮した柴五郎中佐の功績は、私たち日本人が忘れてはならないものなのではないかと思い、この記事を書かせて頂きました。

 最後に、本稿に寄せられた「navy171」さんからのコメントによれば、義和団の乱での籠城戦については、昨年(2017年)4月に講談社文庫から刊行された松岡圭祐著「黄砂の籠城 上・下」にその詳細が描かれているそうです。

http://kodanshabunko.com/kosa-rojo/

 同書の “後記” に記された、初代駐日イギリス大使クロード・マックスウェル・マクドナルドの公式声明は次のような内容です。

日本人こそ最高の勇気と不屈の闘志、類稀なる知性と行動力をしめした、素晴らしき英雄たちである。彼らのそうした民族的本質は国際社会の称賛に値するものであり、今後世界において重要な役割を担うと確信している。とりわけ日本の指揮官だった柴五郎陸軍砲兵中佐の冷静沈着にして頭脳明晰なリーダーシップ、彼に率いられた日本の兵士らの忠誠心と勇敢さ、礼儀正しさは特筆に値する。十一ヵ国のなかで、日本は真の意味での規範であり筆頭であった。私は日本人に対し、ここに深い敬意をしめすものである。

 長くなりましたが、最後までお読み頂きありがとうございました。