あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

谷中霊園②

 前回は、谷中霊園に辿り着くまでの経緯などを書いたところで、取りあえず区切りをつけました。

www.capitandiaryblog.com

 谷中霊園は、広い敷地を持つ都立の霊園で、多くの有名人が眠る場所としても知られていますよね。「谷中墓地」という呼び方をされることもありますが、その場合には都立霊園の他に、徳川将軍家菩提寺であった寛永寺の墓地なども含めた呼称になります。と言いますか、墓地の平面図を見ると、都立霊園の中に寛永寺の墓地が包含されているような感じです。

f:id:RetCapt1501:20210504175906j:image

  そして、寛永寺第二霊園の一角を切り取るように「徳川慶喜墓所」と書かれた場所があるのですが、上の写真だと、右端の近くの上下中央あたりです。寛永寺第二霊園の一部ではなく、「徳川慶喜墓所」となっているところがミソです。

 慶喜公のことについて、これまで興味を持って調べてみたこともありませんし、かつてドラマなどで見たエピソードくらいしか頭に浮かびませんが、徳川幕府第15代将軍であり、大政奉還という歴史的な大事件の主人公でもありますので、お参りすることにしました。

f:id:RetCapt1501:20210504182023j:image

  ちょっと分かり辛いところにあるのですが、大変声の大きい年配の男性が、「慶喜公の墓所はこちらです、澁澤栄一はあそこの木の向こう側」と親切に教えてくださいました。雰囲気からして東京都から委託されたボランティアガイドさんなのかな、と思いつつ、慶喜公の墓所前に移動します。私を含めて数名が垣根の中を覗いたりしていましたら、突然背後から大きな声で「徳川慶喜公の墓所が、なぜここにあると思いますか?」と問いかけられたので驚きました。先ほどのガイドっぽい方です。

 「徳川家第15代将軍であったにもかかわらず、寛永寺の墓地ではなく、こちらに埋葬されていることこそが、徳川慶喜公がどのような人物であったかを知る鍵なんです」

 やはりガイドさんなのかな、と思いながら説明を拝聴致しました。お話は大変興味深いのですが、何しろ微に入り細にわたる大解説ですので、逐一記憶することはとてもできませんでしたが、全体を私なりにまとめてみると概略次のような内容でした。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 幕末から明治維新にかけての動乱期を描いた歴史小説は多数あるが、それらの中で徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、開陽丸で江戸に戻るや、事態収拾を勝海舟に丸投げして、自身は寛永寺での謹慎に逃げたように描かれることが多い。ところが、各種資料を丹念に調べてみると、全く違う話が見えてくる。

 海軍奉行を罷免され無為な日々を送っていた勝海舟が、浜離宮に帰着した慶喜公に呼ばれ、幕府軍討伐のために江戸に向かっている官軍への対処について意見を求められた際、「江戸での戦いとなると幕府の中で幅を効かせているフランス贔屓がフランスの軍事介入を呼び寄せることとなり禍根を残す。東征途上の官軍を、圧倒的に優勢な海軍艦艇を用いて砲撃し、背後に上陸して挟撃することで動揺させ、その上で、江戸城は官軍に明け渡すべき」との私見を開陳。これを採用した慶喜公は、江戸城に戻り、1ヶ月をかけて、その実現のためにあらゆる手を打った。案の定、フランスを後ろ盾に徹底抗戦を主張する急先鋒の小栗忠順おぐり・ただまさ)を罷免するとともに、公女和宮(第14代将軍・徳川家茂正室)を拝み倒して、朝廷への帰順の意を伝える書状を書いてもらい、最終的に自らの恭順の姿勢を形で示すために寛永寺での謹慎という運びとなった。

  将軍職にあったのだから、徳川宗家の菩提寺である寛永寺の墓地に埋葬されるのが筋というものだが、そうではなくこのような私墓に埋葬されているのは何故なのか。水戸徳川家は代々「尊皇」を庭訓とするとともに、神道を信仰しているため、慶喜公は仏教寺院への埋葬には抵抗があり、神道式に埋葬して欲しいとの希望を持っていた。とはいえ、家督を譲った身ながら徳川宗家に連なる立場で勝手なことは許されない。それが可能になったのは、慶喜公の家臣であり、良き理解者でもあった澁澤栄一が大変な出世をして明治政府への影響力を得たおかげで、明治35年に最高位の爵位である「公爵」を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家という別家を創設することが許されたからである。

 墓の形状についても、天皇綾にならった土饅頭式にし、正室の他、生涯を通じて得た4人の側室や嫡男一家の墓も敷地内にあることからわかるように、ここは慶喜公の家族墓苑なのである。

 慶喜公は、「情のない」人だという評価もされており、路頭に迷った多くの元幕臣らの身の振り方などについて心を砕いていた勝海舟からは、相当苦言を呈されていたようだが、もともと感情ではなく理屈で動く人なので、そういう面もあったのだろう。

 そのような性格もあってか、生涯を通じて揮毫の求めに応じた例は殆どないが、江戸時代から残されていた木造の日本橋を石造りに架け直す際には、「あなたのおかげで、日本橋もその姿を残すことができました。この度洋式に架け直すことになったので、是非橋の欄干に揮毫いただきたい」と頼まれ、珍しく応じている。現在も残る「日本橋」と「にほんばし」の銘板は、希少な慶喜公の揮毫である。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 立板に水の語り口で、次から次へと様々なエピソードが年月日付きで繰り出されたので、とても記憶には留められませんし、覚えていても書ききれません(≧∀≦)

 現在進行中の情勢でさえ正確に把握することはできないのですから、史料を読み解いていく他ない歴史上の出来事に解釈の幅が生じるのは当然のことですし、だからこそ魅力的なんだと思います。

 お話を伺った後で分かったのですが、この方は、徳川慶喜公の墓所について独自に研究を続けておられ、時々現地で、研究成果に基づき解説をされているとのことでした。

 その内容について、とやかく申し上げる知見は持ち合わせておりませんが、私が今回このことを記事にしようと思ったのは、何の見返りもないのに、慶喜公のことについてもっと知って欲しいという情熱が、その熱い語り口から痛いほど伝わって来たからです。日差しの結構強い日でしたから、長時間話を伺うのも辛いところはあったのですが、その情熱に感動を覚えましたし、自分にもまだまだやれることがあるのではないかと感じた次第です。

 因みに、ちょっと離れたところに澁澤栄一氏の墓所もあります。

f:id:RetCapt1501:20210505141950j:image

 興味のある方は是非お出かけください。慶喜公の墓所では、詳しい解説を拝聴する機会があるかも知れませんし(╹◡╹)