先日、「高市早苗さんの国家観」という記事を書きました。9月17日に行われた、自民党総裁候補の所見表明を拝見した際、各候補者の政策所見はいずれも素晴らしいものであったものの、高市さんが「国家の使命とは何か」について明確かつ力強く語られたことに感銘を覚えたものですから、そのことについて書いてみたものです。
この記事にコメントを下さった方がいらっしゃいます。
先週は、ブログに向き合う時間がなかったものですから、チェックがすっかり遅れてしまいましたが、そこに書かれた質問を拝見して、もう少し書いてみたいという気持ちになりました。
金森靭彦さんから頂いたコメントです。
「1938年の佐世保生まれです、あなたの謂う『国家観』を教えてください。」
短いコメントということもあり、質問の背景となった趣旨の詳細は明らかではありませんが、私なりに考えますと、①「国家観」というものをどのように捉えているのか、②高市早苗さんの「国家観」をどう理解しているのか、という二つの内容を含んでいるのではないかと思います。
考えてみれば、「国家観」という言葉の定義を確認することもせず、普通に「国家とは何か」「国家の役割は何であるのか」についての見方と理解して使っていたのです。
そこで、改めて「国家観」とは何かを調べてみました。
手元にあった「広辞林」を開くと、「国家観」という見出し語はありませんが、「〜観」については、「物の見方、見解」とありますので、言葉の上では「国家観」に特殊な定義があるわけではなく、国家とは何か、国家とはどうあるべきであるかという見方、見解を指すものだと言うことがわかります。
一方、社会学の立場からは、様々な「国家観」が提示されているようです。
つまり「野獣的国家」「人民的国家」「夜警国家」「軍事国家」「福祉国家」「国民国家」などで、国家がどうあるべきかについて個々人が抱く考え方は、これらの何れかに類型される場合が多いのではないかと思います。
このように見てきますと、自民党総裁を目指す皆さん個々人が、どのような「国家観」をお持ちなのかは大変重要です。
大変重要ではあるのですが、そもそも自民党の党員なのですから、個人の見解はさておき、党が掲げる「国家観」を支持しているはず、というか支持できないのであれば党籍を返上するべきでしょう。ましてや党の総裁を目指す皆さんなのですから、党人としての基本的な考え方に違いはない筈です。
では、自民党が掲げる「国家観」とはどのようなものなのでしょう。
自民党の綱領はあらゆる分野を網羅していますが、「国家観」の視点に絞って要点をまとめてみますと、次のようになると思います(文言の短縮等で、原文とは異る部分があります。)。
・「反共・反独裁」「日本らしい日本の確立」を目的に「政治は国民のもの」との原点に立つ
・日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す
・主権は自助努力で護り、国際社会での責務を果たし、一国平和主義的観念論を排す
・法的秩序の維持、外交・安全保障等、全ての人に公正な政策・条件づくりに努める
詳細は、下のリンクから自民党のホームページを訪ねてみてください。
ご覧になるとお分かりだと思いますが、「反共・反独裁「や「新憲法の制定」などは明確に記載されていますが、「日本らしい日本」ですとか、「主権は自助努力で護る」などについては具体的な記述があるわけではありません。
ですから、このような項目について、それぞれの候補者が具体的にどのように考えておられるのかは、やはり重要な点なのではないでしょうか。
私は、過去の自民党総裁選が実際にどのように戦われてきたのかを詳しく知る者ではありませんが、「安全保障は票に繋がらない」とはよく言われてきたことでもあり、安倍晋三前総理を除けば、恐らく、この分野を正面から取り上げて総裁選に臨まれた候補者はほぼ皆無ではなかったかと思います。
ですから、総裁選公示日である9月17日に行われた所見発表演説会の場において、高市早苗さんが、「わたくしは、日本を護る責任と未来を拓く覚悟を胸に、この自民党総裁選挙への立候補を決意致しました。わたくしは、国の究極の使命は、国民の皆様の生命と財産を護り抜くこと、領土、領海、領空、資源を護り抜くこと、そして国家の主権と名誉を護り抜くことだと考えております」と、迷いなく仰ったことに感銘を覚えたのでした。
そして、国家のありように関する基本的な認識を基盤に、以後、各分野の政策についてご自分の政策構想を展開されたことで、日本をどのような国にしようとされているのかが大変わかりやすく伝えられていたように感じました。
ところで、先ほども述べたとおり、自民党綱領には、「国家観」についてあまり具体的に記載されていないが故に、高市さんは「わたくしは、国家の究極の使命は・・・と考えております」と個人の見解を表明する必要があったわけですが、どうでしょう、「国家観」「国家の使命」が、個人の見解として語られなければならないという現状は、あるべき姿なのでしょうか。
日本はどのような国であろうとしているのか、国際社会においてどのような役割を果たそうとしているのか、そして、そのために日本政府は何をなさねばならないのか、という国家としての根源的な問題は、憲法の前文に記載されていなければならないと思います。
実際にはどうなのでしょう。
我々日本人が、74年もの間、我が国を戦争の惨禍から守り続けて下さっている、神聖この上ない存在として崇め奉ってきた日本国憲法の前文に、どのような呪文が書かれているのかは、崇め続けてきた我々日本人であれば、もちろん熟知していることではありますが、確認のため、ここに書き出してみたいと思います。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
文言を追えば、何も言っていないに等しいのですが、あくまでこれは呪文ですから、内容はともかく何となく有難そうな響きがあれば足りますし、あとはただ唱えさえすれば、平和で豊かな国になることが約束されているのは間違いありません。
と、皮肉を言っていても仕方ないので、本題に戻りますが、憲法前文をかいつまんで要約すると、次のようになるのではないでしょうか。
・日本国の主役は日本国民だよ。
・その日本国民は恒久の平和を念願するけど、そもそも日本以外の国は平和を愛しているんだから、平和を乱す可能性があるのは日本だけだよ。
・だから日本国民は、自ら戦争を起こさないことを誓うし、日本の安全は、平和を愛してやまない他の立派な国々にお任せするよ。
・そんな風に、おんぶに抱っこで生き長らえる日本を誇りに思うよ。
実に立派な態度です。感動のあまり涙が出そうです。
こんな醜い憲法前文を、いつまで自国の国家観として持ち続けるのか。実に情けないとは思いませんか。
様々な新しい問題が持ち上がり、それへの対応をどうすべきなのか、厳しく問われている現在、こんな糞のような憲法をいつまで野放しにしておく積もりなのか、政治家には国民の厳しい問いが突きつけられているのではないかと思います。
因みに、憲法改正に反対する勢力に対する批判の記事を2年前の憲法記念日に書きましたので、興味のない方も是非お読みいただければと思います。