あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

今日は何の日?(9月27日)

 今回の記事はちょっと長いです。

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 1945年(昭和20年)、そう我が国があの戦いに破れた年です。

 この年の9月27日に、駐日米大使公邸で歴史的な会見が行われました。昭和天皇(昭和大帝とお呼びすべきかもしれません。)と在極東連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥との初会見です。

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 マッカーサーについては、その陸軍将校としての経歴を見る限り、いたるところで奇行や大きな判断ミス、統率力の欠如などが垣間見える一方、先の大戦ではさしたる武勲にも恵まれなかったことから、陸軍士官学校の後輩であり、元部下でもあった上に、欧州戦線における連合軍総司令官として「史上最大の作戦」とも言われたノルマンディ上陸作戦を見事に成功させ、欧州大陸における対独反攻の流れを作ったアイゼンハワーとは対照的な存在であったとも言えます。

 しかしながら、戦前、ハーバート•フーヴァー大統領の下で、陸軍少将から、陸軍最高位である参謀総長(大将職)に大抜擢されるなど、尋常ではない能力を認められていたことも確かです。

 更に、メディア戦には長けていたようで、大戦中には、戦況などについて、本国への虚偽の報告も含めた巧みな情報操作を駆使し、内外のメディアや一般大衆からの絶大なる支持を獲得したことで、マッカーサーに不信感を募らせていたトルーマン大統領でさえ、連合軍の総司令官として任用せざるを得なかったようです。

 このようにして見ると、マッカーサーは軍人としてよりも、政治家としての資質に恵まれていたのかもしれません。

 尤も、将官、特に米軍の中将や大将まで昇る人材は多分に政治家としての力量が求められ、先述のアイゼンハワーなど、大統領まで務めていますし、マッカーサー自身も大統領候補の一人でした。

 興味深いのは、若きアイゼンハワーの才能を見出し、彼を引き上げたのがマッカーサーであったことです。

 私見ではありますが、真摯、公正かつ実務的で、能力、人格ともにバランスの取れていたアイゼンハワーに比べれば、何かにつけ大変バランスの悪いマッカーサーではありますが、独特の嗅覚と特定分野において本質を鋭く見抜く慧眼に恵まれ、その結果として大衆を惹きつける軍人政治家だったのではないでしょうか。

 昭和天皇マッカーサー元帥の初会見の模様については、日米双方の記録に差異もありますし、そもそも、どれほど詳細な記録でも、実際にその場で起きた「事実」の全てを伝えることなどできません。ましてや、実際に会見を行った当事者の胸中に去来していた、それぞれの「真実」など、永遠に解明されることはないでしょう。

 「事実」と「真実」の使い方について、おや?と思われた方がおられるかもしれませんね。言葉の定義がどうなっているのかということよりも、私は「事実」すなわちファクトとは、実際に起きた客観的事象のことを指し、「真実」とは、その事実を受け止めた当事者のそれぞれの事情によって形成される主観的解釈だと認識しています。

 映画などにもありますよね。ある事件(ファクト)をめぐり、関係者それぞれの立場での物語を順次に展開していく作品が。立場が変われば、同じ「事実」の意味合いが全く違う。それこそが、それぞれの「真実」だと思うのです。

 以前、何かの記事で、近隣諸国との「歴史認識」の共有を図るプロジェクトについて、「そんなことができるはずがない」と述べたのも、同じ理由です。また脱線してしまいました(≧∀≦)

 話を戻します。昭和天皇マッカーサー元帥の初会見における「事実」も「真実」も正確には分かりませんが、昭和天皇からの申し入れをマッカーサーが受け入れるという形で行われた初会見は、米側も強く望んでいたことでした。

 公開されている資料等から見えてくる物語を、掻い摘んで書いてみます。

 大使公邸に昭和天皇が到着された際、エントランスでの出迎えを副官に任せたマッカーサーは、応接室のソファに腰掛けたまま、一国の君主を迎え入れました。甚だ礼を失した振る舞いですが、占領統治が始まったばかりの頃す、「誰がボスなのかはっきりさせる」ためのパフォーマンスだったのでしょう。

 ところが会見後には、超多忙で、引き続き多くの予定を抱えているにもかかわらず、また全く計画されていなかったにもかかわらず、自ら車寄せまで同行し、丁重に見送りました。

 会見を通じ、マッカーサーの内面に明らかな変化が現れたと見るべきでしょう。それは、その後10回にも及ぶ会見が繰り返されたことや、天皇への厳罰を強く求める本国に頑強に抵抗して天皇擁護を貫いたこと、また、昭和天皇が宮中の宝物を占領軍に差し出して飢餓に苦しむ国民への食糧支援を求めようとしていることを察知した際には、そのようなことをさせてはならん、と、本国政府に日本への食糧支援を繰り返し強く求め、莫大な予算を充当させるに至ったことなどからも窺えます。

 初会見で何が語り合われたのか。昭和天皇御自身は「男の約束」であるとして終生語られることはありませんでしたし、日本側の通訳官の記録にも、マッカーサーの内面に大きな変化をもたらしたであろうような記述はないようです。

 他方、マッカーサー回顧録や、マッカーサーから会見内容を聞いたという人々の証言によれば、昭和天皇は概略次のように仰ったとされています。

 大東亜戦争に係る全ての出来事は、いずれも天皇の名において行われたものである。つまり、一切の責任は自分に帰属するのであって、巣鴨に収監されている(所謂)戦犯には購うべき罪はない。自分を処罰すれば済むことである。一切の責任を負う以上、刑の内容に配慮は無用である(当然、極刑をも覚悟している)。

 日本側の記録にないことから、この天皇発言をマッカーサーの「作り話」とする評価もあるようです。しかし、日本側の通訳官は後に、事柄の重大性に鑑み文言としては残さなかったと、同僚に打ち明けていますし、マッカーサーが占領統治を円滑に行うための作り話だったとするには合点のいかないこともあるのです。

 先に述べたアイゼンハワー共和党から当選した大統領選では、当初、マッカーサーが有力な共和党の候補でした。自己顕示欲の強かったマッカーサーですが、大統領候補への指名がかかった大切な時期に、議会において、大東亜戦争は日本にとって自衛戦争であり侵略の意図はなかったと証言しています。この証言が不興を買い、彼は大衆の支持を失っていきます。

 大戦中、自己保身のために虚偽の報告さえ厭わなかったマッカーサーが、一世一代の大舞台を前に、自ら泥を被るような証言をした理由は何なのか。

 私は、昭和天皇との初会見で受けた衝撃であったと信じます。会見を通じて、天皇とはどういう存在であるのかを瞬く間に理解し、その天皇が統べる国のありよう、開戦に至る経緯などを、先入観を排して学んだのだと思います。その結果、自らの信念となったことを彼は、不利益を被ることは承知の上で、堂々と証言したのではないでしょうか。

 大戦前、ハーバート•フーヴァー大統領の下で、彼が陸軍参謀総長を務めていたことは先程も述べましたが、実は1946年にフーヴァー元大統領が、トルーマン大統領の依頼を受け食糧援助の関係で来日した際、マッカーサーと三日間にわたり対談をしています。第二次世界大戦、特に対日戦についてです。

 フーヴァーは、あの戦争を始めたのは日本ではない、共産主義にかぶれた狂人ルーズヴェルトだと述べ、マッカーサーも、まさにその通りと応えています。

 このやりとりは、フーヴァーの著書「フリーダム•ビトレイド(裏切られた自由)」に記載されているのですが、この本が出版されるまでには50年以上の年月が必要でした。

 それは、米国を覆っているルーズヴェルト神話のためです。ルーズヴェルト史観、すなわち、先の大戦は、全体主義と民主主義の対決であったという史観を信じ、ルーズヴェルトを救世主の如くに扱うムードのことです。同じトーンがわが国を70年も覆っていますので、多くの国民はそれが「事実」だと認識しているのではないでしょうか。自分の頭で考えもせずに。

 ともかく、この本は2011年に米国内でようやく出版され、和訳版は2017年に出版されています。

 米国の歴史学会でも、事実に誠実に向き合おうという動きが出てきているようですが、まだまだ厚い壁に阻まれているようです。しかしながら、先の大戦に関する新たな評価が今始まろうとしているのは確かです。プロパガンダを脱し、是々非々の歴史評価というものが根付く時がきっとくると思います。

 そして、その流れに向けた大きな影響力を、75年前のマッカーサーに与えた日が、まさに9月27日だったのではないでしょうか。

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 そして…

 今日は、コメント欄でもお馴染みの「mika」さんのお誕生日でもあるんです。「mika」さん、おめでとう御座います。

 心新たに、充実した素敵な日々を過ごしてくださいね(╹◡╹)