5月27日は、何の日でしょうか。
そうですね、今から115年前、大国ロシアとの存亡をかけた日露戦争において、その帰趨を決したと言っても過言ではない、日本海海戦が戦われた日です。
この記事に埋め込もうと、先日アップしたばかりの動画を貼ります。一昨年の東郷の杜音楽祭で川上良司さんが歌われた「日本海海戦」です。
昨年の10月に佐世保音楽隊に異動された川上さんですが、何しろイベントがないものですから様子がわかりません。でも、東京音楽隊の頃と同じように、存在感あるボーカリストとして活躍しておられることと思います。
2年ほど前に、川上さんのことを書いた記事がありますので、興味のある方は是非お読みになってください。
それはさておき、日本海海戦の話です。
これまで、一昨年、昨年と2回にわたりこの日に記事を書いてきました。
一昨年の記事では、私はこの海戦を「日本人として」誇りに思うけれど、それは大国ロシアの大艦隊に勝利したからではなく、欧米列強によるアジアの植民地化が既定路線として定着していた国際社会にあって、自国の居場所を確保するため、勝算も覚束ないなか、覚悟と勇気をもって敢然と立ち向かった気概を誇りに思うと書きました。
昨年の記事では、戦前、日本人の気概の象徴として丁重に保存されていた記念艦「三笠」が、戦後、進駐軍のダンスクラブになるなど、荒れるにまかされているのに心を痛めた米海軍のニミッツ提督はじめ米英海軍将官らの働きかけで、改めて「記念艦」として保存整備されるよう、「三笠保存会」が設立されたことを紹介しました。当時の日本人にはそのような心の余裕はなかったのかもしれませんが、「敵将」が心を痛めるほど東郷元帥とその将兵が素晴らしい存在であったことを、我々日本人も少しは学んても良いのではないかという思いを書きました。
さて、現代の日本国内では全く顧みられることのない日本海海戦ですが、毎年この日には佐世保と上対馬において慰霊祭等が行われています。
佐世保での慰霊祭および戦勝祝賀会は、佐世保水交会などが主催し、海自佐世保地方総監部などから自衛官も参列して行われています。
水交会については、以前書いた記事がありますので、興味のある方はご覧ください。
今年の行事については、コロナウイルスへの配慮もあり、通常よりも大幅に規模を縮小して、関係者のみでの開催となりますが、それでも継続されることになったことは慶ばしいことだと思います。
また、日本海海戦時、撃沈されたロシア艦艇から脱出した100人以上の乗員らが救命ボートなどで漂着した上対馬の西泊では、27日、28日の両日、「日露対馬沖海戦追悼慰霊祭」が行われています。今年は洋上慰霊祭も計画されていたのですが、どうなんでしょう、今年の開催については確認できていません。
下の写真は、昨年の慰霊祭のものです。海上自衛官の姿が見えますが、おそらく上対馬警備所の隊員だろうと思います。因みに、対馬地区には、上対馬、下対馬、そして壱岐の3島に海上自衛隊の各警備所が置かれ、連携して対馬海峡の監視に当たっています。
お分りいただけると思いますが、日章旗とともにロシア国旗が掲揚されていますね。
そうです、この慰霊祭は、日露両国将兵の御霊を慰めるために毎年行われているのです。この地区には、先ほども申しましたとおり、100名以上のロシア海軍将兵が漂着しましたが、島民はこぞって彼らをそれぞれの自宅に収容して寝食の世話をし、丁重に保護しました。
もちろん連合艦隊の各艦も、海上を漂う将兵を敵味方分け隔てなく救助し、艦内に収容し保護しました。
この海戦では、両艦隊が会敵した27日の14時過ぎにロシア側からの砲撃で戦いの火蓋が切って落とされましたが、連合艦隊司令部先任参謀であった秋山真之によれば、激烈な砲戦は会敵後30分間で事実上の決着がついたといいます。その後は、雲散したロシア艦艇に対する連合艦隊の追撃戦となります。夜戦を経て、翌28日未明からの残敵掃討戦へと移行して行きましたが、日本側の各艦は接敵した場合、まず降伏を勧告し、これに従えば拿捕、拒否して戦闘を継続する意思表示があった場合にはこれを攻撃するという手順を踏んでいました。
当時の日本は、鎖国をやめ開国してからわずか50年しか経過していませんでしたが、欧米列強から侮りを受けないためには、戦いに勝っても負けても、戦時国際法その他の国際ルールを完璧に遵守し、日本が文明国であることを強烈にアピールしなくてはならないという意識が全軍に徹底されていました。
そのため、日本海海戦における日本艦隊のふるまいは、あらゆる面で国際社会から賞賛を浴びることとなりました。因みに、日露戦争当時、日本には13カ国から「観戦武官」が派遣され、日本海海戦においても連合艦隊に乗艦して、その戦い振りを直接目にしていますから、彼らを通じて日本艦隊の順法精神と勇戦奮闘ぶりが各国に伝わったのだと思います。
富山国際大学国際教養学部紀要vo.4(2008.03)に、そんな観戦武官の一人であるオスマン帝国(現トルコ共和国)の軍人ペルテヴ・パシャについて、横井敏秀さんが書かれた論文が掲載されています。ペルテヴ・パシャは日本海海戦は観戦していないようですが、日本国内での帝国軍人との交流や、大陸での戦いぶり等を通じて形成された日本論は、大変興味深いものですし、以前ご紹介した「エルトゥールル遭難事件」の件についても触れられています。興味のある方は下の写真をクリックしてみてください。論文にリンクしています。
さて、この海戦で破れたバルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、開戦初頭に重傷を追い、手負いの旗艦からいくつかの艦艇への移乗を繰り返しながらウラジオストクへの入港を目指しましたが、修理と補給のため本隊から分離して行動していた連合艦隊の駆逐艦に偶然遭遇し、砲戦の末降伏・拿捕されました。
佐世保の海軍病院に収容され手厚い治療を受けていた同中将の病室を、連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将が見舞った際、敗軍の将に屈辱感を与えないため、軍服を脱いで入室され、また上から見下ろすような形にならないよう、ベッド脇の椅子に腰掛けて見舞われ、欧露からの大遠征に伴う労苦を労われたという逸話は有名です。
ロジェストヴェンスキー中将は、東郷大将の心遣いの意味を理解して大変感激され、敗れた相手があなたのような方であったことがせめてもの慰めであると、涙ながらに応えられました。帰国してからも生涯、東郷元帥を尊敬し続けたそうです。
現在でも、多くの国で尊敬を集める東郷元帥ですが、残念ながら当の日本では「名前は聞いたことがある」程度の存在になりつつあります。日本国民が自国に誇りを持つことを嫌う人々による執拗な工作が実を結んだ結果だと仰る方もおられます。戦前と戦後を完全に断絶させようという狙いだと言うのです。
なるほど、だから、以前記事に書いた「佐久間艇長」の話も、
「柴五郎大将」の話も、
戦後の日本人は知らずに過ごしているわけですね。戦前の日本人はとんでもない連中で、世界中特にアジア諸国からは恨まれ、憎まれても仕方ないと。
ところで、昨年我が国で開催されたラグビー・ワールドカップは、大変な盛り上がりを見せましたね。もちろん、各試合で各国チームが見せる素晴らしいプレイや、ハラハラする試合展開の中で輝く一瞬の判断や勇気と言うものが見るものを大いに感動させました。でも、それと同時に、ホスト国日本のファンの応援マナーが世界中で賞賛を浴びましたね。日本チームだけでなく、どの国のチームにも分け隔てなく応援を送り、例えば日本の対戦相手であっても、試合が終われば惜しみない喝采を送っていました。
誰に指図されたわけでも、ましてや国に強制されてやっているマスゲームではないんです。一人一人のファンの思いが大きな連帯となってフィールド上の各国選手だけでなく世界中のファンを魅了したのでした。
この件について、以前書いた記事があります。フリートウィークに因み、「脱線」部分で、旭日旗のことを書いた記事なのですが、この「脱線」部分は、できるだけ多くの方に読んでいただけたらと言う気持ちで書いたものです。この機会に御一読いただけると幸いです。
このような、現在の日本人の心持ちというのは、先ほど書いてきた日露戦争の頃の日本人の心持ちと、何が違うのでしょう。全く同じですよね。敢えて断絶させられ、見ないように聞かないように仕向けられた以前の日本人と、現在の日本人は何ら変わることのない「分け隔てなく真心を尽くす」「いつでも他者への敬意を忘れない」という特性を身につけていると、私は思います。そしてそれは照れることなく世界に誇って良いことではないかとも思います。
私は、日本海海戦は、日本が世界とどう折り合いをつけて行くべきなのかを、大変わかりやすく示してくれている気がするのです。難しいことなんかありません、日本人は小賢しい小技・裏技を弄するのではなく、我々に本来備わっている特性に素直に従い、損得ではなく、是々非々・正々堂々正面から渡り合えば良いのだと思います。
「大人の対応?」小賢しい。信じた道をまっすぐ歩く、馬鹿で上等、文句があるか。
結局「寅さん」だな。