前回、「社会への信頼」と言う記事で、新コロナウイルスへの対応という観点から、我が国の現状について私見を述べさせていただきました。
今回は、ちょっと違う観点から考察してみたいと思います。
2ヶ月ほど前、「コロナウイルスと”復活の日”」と言う記事を書きました。当初、他人事のような捉え方をしていた人々が、次第に、「大変なことが起きているのではないのか?」と思い始めている感じが、小松左京さんのSF小説「復活の日」のパンデミック前夜の流れに似ているな、と思い出したものですから思わず書いた記事でした。
その後の推移を見ると、まさに「復活の日」と同じように、あっという間に世界中に感染が拡大していきました。「感染力」というものがどのように評価されるのか私は知りませんが、感覚的に言って非常に高い感染力を持つウイルスではないかと思います。
では、感染力が高いことそれ自体が脅威なのかといえば、そうではないでしょう。
どんなに感染力が高くても、ヒトの健康に全く影響を与えないようなウイルスであれば問題にならない、というか、殊更その感染状況を調査しようとでもしない限り、誰も気づきもしないでしょうし、関心を集めることもないでしょう。そんなウイルスはきっとごまんとある筈です。
感染力とともに考慮しなければならないのが「致死率」です。
そのウイルスへの感染が原因で、個体を死に至らしめる確率を「致死率」と呼びますが、致死率がどんなに高くても、感染力がほとんどなければ、その封じ込めは容易ですし「怖いねー」という話題にはなっても、現実的な「脅威」としては感じられないでしょう。
今回の新型コロナウイルスが脅威を与えているのは、感染力が高いことに加え、一定の「致死率」が確認されているからに他なりません。
では、新型コロナウイルスの致死率はどの程度なのでしょうか。
WHOの発表では「2%」となっています。
間違ってはいけないのは、人口の2%という意味ではありません。感染者のうち死亡する確率が2%ということです。
インフルエンザでの致死率が1%程度ですから、その2倍の致死率というのは確かに脅威となります。
もちろん、感染拡大の途上における推計ですので、正確な致死率を把握するにはもっと時間が必要でしょう。
先ほども申しました通り、「感染者数」を母数とする確率ですから、我が国のように検査対象を重症者に絞っている場合には致死率が高く出る筈です。ところが、現在我が国で確認されている致死率も、概ねWHO発表値と同程度ですから、我が国における実質的な致死率はより低いという推定も成り立ちます。一部で、日本人は今回のウイルスへの耐性が他の民族よりも高いのではないかとの見かたが出ているのも、そのような背景に基づくものではないでしょうか。
ところで、14世紀に世界中で猛威を振るったペスト(黒死病)は、高い感染力と致死率で人類を震撼させましたが、その致死率は、驚くべきことに60〜90%でした。人類滅亡の危機に瀕していたと言っても過言ではないでしょう。
それでも人類は、あの時代の叡智を結集し、その感染ルートと原因を特定して、感染拡大の防止を成し遂げましたし、公衆衛生という概念を確立して、より安全な社会というものを後世の我々に残してくれました。未だ、ペストは完全に制圧されているわけではありませんが、少なくともコントロール下にあります。その恩恵に浴することができていることを感謝するとともに、今回の事態を機に、更に安全な社会を後世に残していくのが、今を生きる我々の使命であるとも思います。
現実に亡くなられた方も少なくない中で、批判を恐れずに申し上げるならば、ペストなどに比べれば、遥かに低い致死率に止まる今回の事態は、私たちに、より恐ろしいウイルス事態への備えを準備するよう促す警鐘であるに違いないと、私は思います。
得られつつある教訓は数多くあります。
それらを、ペスト級のウイルス事態にも対応できる緊急事態対処計画としてきめ細やかに結実し、折々の訓練を積んでいくことが、より安全な社会を保障してくれるに違いないと思います。緊急時には、個人の権利が幾分制限されるのは止むを得ない。そうでなければ、社会を構成している意味がない。私はそう思います。