中国武漢市で発生し、その実態が正確には把握されないまま、実は大変なことが起きているのではないか、と多くの人々が感じ始めている新型肺炎ですが、今回の情報の広がり方を見ていて思い出したSF小説があります。
タイトルにも入れた、”復活の日”です。
日本のSF作家と言えば、と問われれば、その名前を真っ先にあげる方も多いのではないかと思いますが、小松左京さんの代表作の一つです。
映画化もされ、確か草刈正雄さんが主役を努めていたと記憶しますが、間違っていたらごめんなさい。
私がこの小説を読んだのがいつだったかは思い出せないのですが、多分いろんな小説を読み漁っていた高校生の頃だったのではないかと思います。
今手元にはないので、細かい内容は思い出せませんが、某国の軍隊の研究所から漏洩した細菌兵器が静かに世界中に拡散していき人類が滅亡していくという流れの中で、当初、他人事と思っていた「感染」が静かに、確実に自分たちの身に迫ってくる緊迫感や自らも感染しながら患者を救おうとする医療現場の透徹した使命感と絶望感が、まるでそこに自分がいるかのようなリアルさで伝わってくるパンデミック段階のきめ細やかな表現が秀逸だったことが大変印象に残っています。
この小説のことを思い出したのは、当初「また、新しい肺炎が中国で発症したらしいね」程度の認識だったものが、わずかの間に「とんでもないことが起きているのではないか」という危機感に変わってきたこと、それでもまだ大多数の人々は「とは言え自分には関係ないだろう」と思っている感じが、小説の流れと大変よく似ている気がするからなのかもしれません。実際に何が起きているのか、どう展開しようとしているのかわかりようもありませんが、決して楽観できるものではないような気がします。
小説では、人類が死滅した世界で、米国とソ連(当時)が「相互確証破壊戦略」の下配備していた核ミサイルが、何らかの原因で発射され、世界中の大都市の上空で爆発した中性子爆弾から降り注ぐ夥しい量の中性子線が、パンデミックを引き起こした細菌兵器を死滅させ、感染から免れた南極で生き延びた人々が新たな人類として復活するという終末だったと思います。
中性子爆弾というのは、今述べたように、建造物の破壊ではなく、中性子線によって生物の細胞のみを破壊し、地上の生命だけを消し去ることから「クリーンな兵器」と呼ばれていました。そのような性能を「クリーン」と呼ぶセンスはどこかれ出てくるのか疑問ではありますが、もともと使えないことが前提の兵器だからなのでしょう。
武漢市長が「歴史に汚点を残してでも、対処しなければならない」とコメントしたとのニュースを耳にした時、このことを想起して思いました。「まさかね」