あれこれdiary

海自OBによる偏見御免徒然あれこれdiary

自由の争奪戦

 この連休は、実家に身を寄せていました。昨年末に父が施設(リハビリ病院)に入ったものですから、その状況を確かめたかったのです。スマホから記事を上げるのがあまり好きではないものですから、記事投稿はお休みさせて頂きました。

     さて、昨年の春先には命が危ぶまれた父ですが、両下肢の自由を失いながらも一命を取りとめ、リハビリ病院に転院することができたのは幸いでした。

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 リハビリ病院だけでなく、老健施設やグループホーム、居宅支援相談センターなどが集約されており、利用者にとっては大変便利な施設です。

    今回、リハビリに取り組む姿なども直接見ることができたのですが、自分の力で立つために、懸命に取り組む父の姿を見て思ったのは、これこそが人生なのではないかということでした。

    人間は生まれながらにして自由だとおっしゃる方がいらっしゃいますが、果たしてそうでしょうか。

    どの国の、どんな家庭に生まれるのか、新生児は選ぶことができません。それだけでも不自由極まりないのに、喋ることも、自在に動くこともできない嬰児に、なんの自由があるというのでしょうか。

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    そんな不自由の極みから、少しづつ自由を獲得していく戦いの過程が「成長」なのでしょうし、身体能力だけでなく、言語や思考力も、より自由な人生を担保するためのスキルと言えるでしょう。

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 でも、そのような個体の自由を獲得しても、不自由のない人生が送れるわけではありません。

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 高度に分業化が進んだ現代社会で、個人が自力で成し遂げられることなどほんの僅かです。食料を始めとする消費材、家屋や乗用車などの耐久財は、通常個人が作り出せるものではありませんし、訴訟や重大な契約などの法律行為については、弁護士や司法書士など専門家の助言なしには覚束きません。

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    ですから、これらのサービスを手にするために、私たちはその代価を支払えるだけの収入を得ようと努力します。つまり、獲得した個体の自由度を駆使して、今度は社会的自由度を獲得するための戦いが続くわけです。

    こうして、個体としての自由度と社会的自由度を合わせた個人の自由度が増えたり減ったりを繰り返しながら徐々に拡大していきますが、それがピークを迎えるタイミングはもちろん人それぞれです。本人にさえ、いつがピークなのかはなかなか解りませんし、予期せぬ事態で突然自由度を失うことだってあります。でも、概ね青年期から中年期にそのピークを迎え、その後は徐々に失いはじめ、最終的に全ての自由度を返上して土に還るというのが一般的ではないかと思います。

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(寝てるだけです。念のため)

 自由度の獲得段階は、ありたい自分と現状とのギャップを自らの意思で埋めていくプロセスと捉えることができますが、では自由度を失う段階はどうなんでしょう。あるはずの自分と現状とのギャップを折に触れ思い知らされながら、渋々それを追認していくプロセスでしょうか。

 とは言え、「あるはずの自分」は「ありたい自分」でもありますから、易々と追認することなく、これに抵抗して自由度を獲得するための戦いを続けることになるのだと思いますが、成長期とは異なり、それは実に「シンドイ」ことです。「もう歳だし、無理しなくていいんじゃない?」と考えれば、自由度を獲得する戦いはそこで終わり、あとは失われていく自由度と運命を共にする達観した日々を過ごすのでしょう。

 今回、父の姿を見て、生まれてから死ぬまで続く自由の争奪戦こそが人生なのかなと思ったのでした。