海上自衛隊東京音楽隊の歌手である三宅由佳莉さんは、幼少の頃からミュージカル女優になることが夢でした。宝塚にも憧れていたそうですが、その舞台が観たくても、おいそれと観れるものではありません。ピアノの先生が貸してくれた宝塚のビデオを、飽きることなく何度も鑑賞していたと言いますから本当に好きだったのでしょうね。
地元の名門、「倉敷児童合唱団」への入団も果たし、高校2年までその団員として少女時代を過ごします。
岡山県立城東高校では、公立校では珍しい音楽専門コースを選択し、部活ではダンス部に所属するなど、全ての照準を自分の夢に合わせ、着実に歩を進めるところは、昔も今も変わらない、三宅さんの真っ直ぐな性分なのでしょう。
ですから、音楽大学ではなく、我が国のエンターテイメント界で活躍する多くの人材を輩出してきた日本大学藝術学部(日芸)で声楽を学ぶというのは、そんな三宅さんにしてみれば、当然の帰結だったのではないでしょうか。
2016年5月25日(水)に放送されたFMラジオプログラム「bayfm it」に三宅由佳莉さんが出演された際、三宅さんの経歴を聞いた番組パーソナリティの曽根由希江さんが、「いい意味で野心家というか、ご自分のプロデュースがすごく上手なんだと思う」と仰ってましたが、まさにその通りだと思います。
もっとも、自分をプロデュースしているという意識はないと思います。目標を定めたらひたすらまっしぐらという感じなのでしょう。「夢は叶えるためにある、だから迷わず努力する。他人のことはわからない、私はまっすぐ前をみる。」きっと、そんな思いなのだと思います。
そんな、目的意識のはっきりした三宅由佳莉さんですが、大学に入学してから、ちょっとした変化が兆してきたように思います。
それまでの流れを踏襲し、三宅由佳莉さんは、大学でもダンスサークルに入ろうと思っていました。ところが訪ねた部室には誰もいなかったため、帰ろうとした時に、道場で稽古に励む女性空手部員の姿に「はからずも」魅了され、入部を決めています。
入部の動機はどうあれ、まったく未経験の分野での初めての試合で、勝てるはずのない「格上の」相手に敗れた悔しさをバネに稽古に打ち込み、在学中に全国大会を制覇するなど、どう考えても尋常ではありません。
先日、全自大会で準優勝した後の東京音楽隊HPの記事に書かれていた「大学時代は空手しかやってません」という実に三宅さんらしいコメントに思わず笑ってしまいましたが、持ち前の「負けじ魂」に改めて火をつけてくれたのが「空手」なのでしょうし、武道との出会いが、現在に至る三宅さんの精神的支柱の形成に果たした役割は計り知れないものがあると思います。
さて、その後のご自分の人生を支えることになる空手との出会いを「はからずも」果たした三宅由佳莉さんですが、少女時代からの夢であったミュージカル女優への道は簡単なものではありませんでした。才能や思い、努力だけで叶う夢ではありません。
どんな世界でも、成功した人には、そこに導いてくれた人や物事との出会いが必ずあります。でも、多くの場合、それらは意図したものではなく、また、出会った時にはその意味合いすら本人にはわからないものなのではないでしょうか。
そんな言葉があるのかどうかは分かりませんが、このような道筋をわたしは勝手に「ヒーローズ・パス」と呼んでいます。
大学卒業後の身の振り方を決める段階で、三宅由佳莉さんは、ミュージカルのステージに通じる「パス」を歩んではいなかったということでしょう。大手の百貨店から採用の内定を受け、卒業後は仕事をしながらミュージカル女優への夢を追い続けようと心に決めていた三宅由佳莉さんに「はからずも」もたらされたのが、「海上自衛隊で歌手を募集するらしいから、試験を受けてみてはどうか」という声楽の先生からの助言です。ちょうど、三宅さんが卒業するタイミングでの歌手隊員の採用を、海上自衛隊は防衛省初の試みとして決めていました。
私はこの経緯に大変興味があります。その先生は、なぜ三宅由佳莉さんにこの話を持ちかけたのでしょう。海自による歌手募集のタイミングといい、以後のドラマチックな展開といい、三宅由佳莉さんのための「ヒーローズ・パス」は、別の形でちゃんと用意されていたと考えざるを得ません。
不本意ながら、東京音楽隊の説明会に出かけた三宅由佳莉さんでしたが、奏楽堂での合奏練習を見学して、おそらくびっくりしたのだと思います。自衛隊の音楽隊が我が国でもトップレベルのオーケストラだとは夢にも思っていなかったでしょう。その演奏と説明内容に「はからずも」心惹かれて受験を決意した三宅さんの、入隊後の歩みも、まさに「はからずも」の連続でした。
東日本大震災という未曾有の出来事で被災し多くを失った皆様の悲しみや喪失感は想像を絶するものがあります。そしてまた、その惨状を目の当たりにした日本中の人々の心にも大きな傷が残りました。
この震災の被災者の心を癒し、勇気付けたいとの思いで、当時の東京音楽隊長、河邉一彦さんが手がけた「祈り〜a prayer」は、東京音楽隊の全隊員の被災地への思いが三宅由佳莉さんの歌声に乗って、被災された方々のみならず、傷を負った多くの心に伝わり届き、「はからずも」全国の幅広い層から圧倒的な支持を得ることになります。
そして、三宅由佳莉さんの名が売れ始め、メディアからの出演依頼が殺到するようになりました。やがて、三宅由佳莉さんの歌う姿が「はからずも」ユニバーサルレコードの目に止まり、あっという間にCDデビューの話がまとまります。
5千枚売れればヒット作と言われるクラシック部門で、発売と同時にトップセールスに輝き、2週を待たずに1万枚以上を売り上げたこのアルバムは、その後も異例の売り上げを続け、音楽業界に驚きを与えました。その結果、「はからずも」その年のレコード大賞企画賞の栄誉に浴しましたし、CDショップ大賞は、何とクラシック部門を新設してまで、このアルバムを表彰したのです。まさに社会現象とも言える熱狂がそこにはありました。
嵐のような熱狂の時は、数年間にわたり続くことになります。この間の出来事も「はからずも」なことばかりですが、たとえどんな役柄が巡ってきても、誰も驚かなくなるほどの存在感が三宅由佳莉さんには自然と備わっていきました。でも、どんなに環境が変わっても、どんなに有名になっても、淀みのない清廉な本質にはいささかの揺ぎも生じることはなく、常に謙虚で努力を惜しまず、ご自分の立場・役割をよく弁えて精一杯生きる。三宅由佳莉さんの立ち居振る舞いや言葉、表情、そしてその眼には、そうした三宅さんの生き方がよく現れていると思います。
そしてそのことがまた、三宅さんの「ヒーローズ・パス」に新たな出会いをもたらし続けているのだと思います。
そんな出会いの一つが、2014年5月31日(土)に(旧)国立競技場で行われた取り壊し前のファイナルイベント「SAYONARA国立競技場」での国歌独唱でしょう。何万人という大観衆の中での独唱。ご本人は、緊張のあまりどうやってスタンドマイクのところまで歩いて行ったのか記憶にないほどだと仰っていますが、実に堂々たるものです。
この動画を見るとわかるのですが、独唱で始まった君が代も、後半には、大観衆が加わっての斉唱になっていきます。そのように、見る者を引き込む力を、三宅由佳莉さんは確かに持っていると私は思います。
この独唱に引き続き、大きなイベントでの国歌独唱の機会が何度かあり、その度に、来る東京オリンピックでは三宅由佳莉さんの君が代独唱が聞きたいという声が少なくありませんでした。私もそうですし、三宅由佳莉さんのファンの多くもそれを望んでいるのではないでしょうか。簡単ではないでしょうが、三宅さんにこそ相応しい舞台だと思います。
オリンピックでの国歌独唱は、ファンが勝手に言っているだけかと思っていたら、どうやら三宅由佳莉さん自身の夢でもあるようなのです。それはそうですよね。これほど名誉なことは、そうはありません。
あの熱狂の時にオリンピックが開催されていれば、きっと三宅さんにお鉢が回ってきたことでしょう。タイミングが悪かったと考える方もおられるかもしれませんね。でも私はそうは思いません。あの時期にオリンピックの舞台に立ったとしても、「なんか勢いであそこまで行っちゃったよね」という評価がついてまわるだけです。そんなことにならなくて本当に良かったと思います。
これからどのように選考が行われるのかはわかりませんが、先ほどのような大舞台も含め、公式行事での国歌独唱をこれほど数多く経験している歌手は、三宅さんをおいて他にいないでしょう。
私は、三宅由佳莉さんの「はからずも」が、まだまだ私たちを驚かせ、喜ばせてくれるに違いないと、確信しています。