昨夜、例によってYouTube動画をチェックしていると、ある広告動画が目を引きました。虎に関する動画です。
私は、海上自衛隊のOBですが、少年時代にはまっていたのは戦車、特に第二次世界大戦中のドイツ軍の戦車です。いずれも美しいフォルムなのですが、何と言ってもタイガーI型が帝王だと思います。電気ポットじゃないですよ。
そんなこともあり、孤高のイメージを持つ虎は嫌いじゃありません。
その虎が絶滅の危機に瀕していると、その動画は言うのです。
毛皮が高値で取引されるのでしょう、ジャングルの中に仕掛けられた罠に嵌って命を落とす虎が後を絶たないようなのです。罠から人間の手で救い出されるも、手遅れで絶命を待つ虎の目から涙がこぼれるシーンもありました。戦闘能力に長けているにもかかわらず、こんな形で落命するのは、さぞ悔しかろうと、胸を打たれました。
ところが最後に、募金のためなのか、確か「あなたにできる自然保護を」というクレジットが入り、私は興ざめしました。募金にではないですよ。私は、「自然保護」という言葉が好きではないのです。
人間の、身の程知らずな驕りが感じられる言葉だからです。
私見ですが、人間ごときに、大自然を「保護」する力などあるはずがありません。逆にいえば、人間ごときに、大自然を「破壊」する力などあるはずがないということでもあります。
人間による「自然保護」も「自然破壊」も幻想に過ぎないと私は思います。
人間が何をしようが、しまいが、大自然は全く意に介することなく、只々自らのルールにしたがって振る舞うだけです。より安定した状態、より調和のとれた状態を追求するというルールです。
そして、このルールに従って、気の遠くなるような長いスパンで変動する大自然のうねりを、我々人間は把握することすら難しいのです。
人間の営みが自然を破壊していると考える向きもあるようです。例えば先ほどの虎の例がそうでしょう。でも、その発想自体が驕慢だと思えるのは、あたかも人間が、大自然から超然としてこれと向き合い、コントロールする存在であるかのような思想が垣間見えるからです。
おそらくこの思想は、人間は神に似せて作られ、この地上の管理を任されているという宗教的信念に支えられたものではないでしょうか。
人間だって自然の一部です。ですから、人間の営みがもたらす害悪だって自然の一部なのです。それが地球環境のバランスを崩すのならば、大自然はバランスを回復しようと、全てを一掃するだけです。人間の力なんて必要ないんです。
誤解しないでいただきたいのは、「だから放っておけばいい」と言っているのではありません。「自然保護」などという欺瞞に満ちた言葉を使うのではなく、「我々人間にとって都合の良い環境を維持しましょう」と、正直に言えばいいのになと思っているのです。
虎さんもそうですが、「絶滅危惧種」という言葉がありますよね。では誰が危惧しているのでしょう。
太古の昔から、その時々の環境に適応できなかった夥しい数の生物種が、淘汰され絶滅する運命を受け入れてきました。それが自然の摂理だからです。
一方で「自然保護」を叫びながら、他方で「絶滅危惧種を救え」と言うのですから、「それ、自然破壊だろ」と突っ込みたくもなります。絶滅を危惧しているのは、絶滅に瀕している生物種ではなく、人間です。人間にとって絶滅して欲しくないから危惧しているだけでしょう。だからそれは、「自然保護」じゃなくて「人間にとって都合の良い環境の維持」に他なりません。
単なる言葉遊びと思われるかもしれませんが、言葉は大切です。
その言葉の持つ意味が、これを使う者の意識に、投影されていくからです。
自然というものは人知の及ばない存在だから、これを畏れ、多くを望まず、地の恵み、海の恵みに感謝して、身の程を弁えて生活を営んできたのが日本人ではなかったかと思います。
いつの間にか、畏れ敬うことを忘れ、貪欲になり、科学の力を過信して自然をコントロールしているつもりになってはいないだろうか。
「自然保護」なる言葉が好きになれないのは、そんなことを考えるからです。