ウィットに関する続編です。
2000年7月5日、20世紀最後の米国独立記念日を祝う国際観艦式に参加した日本国練習艦隊(遠洋練習航海部隊)は、ニューヨークに停泊中でした。
そこへ、英国の巨大な豪華客船「クイーンエリザベスⅡ世」号が入港してきたのですが、前日のイベントのためにたくさんの船舶が集まっており、港内は大変な混雑でした。大変難しい状況で、指定岸壁への接岸を試みる同船の船尾が、わが旗艦「かしま」に接触する事故が起きました。
けが人もおらず、お互い軽微な損傷で済んだこの事故に関する記事が配信されると、世界中で話題となりました。日本を除いて。
翌6日付の「The Telegraph」が配信した記事がこれです。
英語の記事ですので、仮訳してみますと、次のような感じです。
「クイーンエリザベスⅡ世」ニューヨークで日本の軍艦と接触
フィリップ・デルヴス・ブラウトン 〜ニューヨーク〜
2000年7月6日
「クイーンエリザベスⅡ世」号は、昨日、艦船が輻輳するニューヨーク港において日本の軍艦と接触事故を起こした。
1,700人の乗客を乗せた同船には、船尾に向かって長い傷跡が残り、一方、日本の軍艦「かしま」の艦体は凹んだ。「かしま」が同船に押された際、隣接係留していた英国海軍のフリゲート「マンチェスター」も軽度の損傷を受けた。
英国海軍の広報官、デイヴィッド・ヒアリーは、「衝突というよりは、ゆっくり押し付けられたような感じだった」と述べた。7月4日の翌日で、港内は船舶が輻輳しており、接岸するのは難しい状況だった。
「クイーンエリザベスⅡ世」号は、3隻のタグボートによってコントロールされていたが、すぐ後方には米海軍の空母「ジョン・F・ケネディ」が迫っていたため、マンハッタンの西側にある92番埠頭への接岸を慎重に行わねばならなかった。
同船が進入する際、船尾についていたタグボートのうち1隻の係留索が外れたため、同船の船尾が「かしま」の方に押し出される形となった。日本側は、同船の船長及び乗員が謝罪のため乗艦した際、素敵なユーモアで応えた。
同船オーナーのスポークスマン、ブルース・グッドによれば、日本の提督が乗艦しておられ、「女王陛下からキスされたことを光栄に思います」と応じたとのこと。
この提督とは、練習艦隊司令官(遠洋練習航海部隊指揮官)の吉川滎治・海将補(当時)です。のちに海上自衛隊トップの海上幕僚長まで務められた方で、某地方総監をされていた際、私も隷下部隊の指揮官としてお支えしたことがありますが、人格・識見とも素晴らしい方でした。
吉川海将のスタンスは、「逃げない。正面から受け止める」ということだと私は理解しています。ご自分でそんなことを仰ったわけではありませんが、平素の立ち居振る舞いを見る限り、そうなんだろうなと思わされました。
どんなことが起きても、どっしりと構えておられました。もちろん内心いろいろお考えはあったのでしょうが、トップがうろたえると、部隊全体が浮足立つことを十分わかっておられたのだと思います。トップが落ち着いて、的確な指示を出していると、自然と下の者も落ち着きを取り戻します。
そんな心の持ちかたが、余裕を生み、上のような洒落た受け応えにつながったのだろうと思います。
この艦隊に乗艦していた実習幹部にとっては、非常によい生のエピソードになったのではないでしょうか。
さて、このエピソードは、世界各国でちょっと素敵な話として盛んに取り上げられ、報道もされたそうですが、我が国では一切報道されることも、話題になることもありませんでした。もちろん、練習艦隊も海上自衛隊も、単なる軽微事故についてわざわざ公表したりはしませんので、各報道機関が海外からの配信記事に報道する価値を見出さなければそのままボツになるだけのことです。
つまり、海上自衛官がこのような当意即妙な応対をし、国際的にも高く評価された事実は、残念ながら我が国においては報道の価値がないということです。
この件は、阿川弘之さんが雑誌の記事の中で取り上げられ、そこから国内でも知られるようになりました。Youtubeでもたくさん記事動画が流れていますが、どうやら配信記事にはあたっていないらしく、やや内容が異なるものが多いようです。
このエピソードは、旧帝国海軍が英国海軍から学んだ、「ウィットを解さない者は海軍士官に非ず」との教えを、長い時を経て、海上自衛隊の士官から英国にお返しした、とても意義あるものだったと、私は考えています。